アメリカのここがいい(2)
アメリカのいいとこ探しパート2
日本は特に、アメリカンライフに憧れているように感じるから、過剰な期待とは裏腹にがっかりすることもある。そんなにアメリカンドリームに憧れはなかった私でもちょっとしたがっかりはいろいろとあった。でもそんな過剰な期待も最近は平常な人生の一部になってきた。うん、これが普通のアメリカ。
人間に短所と長所があるように、アメリカにもいいところはある。
前回のフレキシブルさに引き続き私が好きなのは
2.知らない人が知らない人にやさしいこと
助け合ったり、褒め合ったりして知らない人が知らない人をハッピーにする。
ハッピーハッピーってこのブログでもう100万回くらい言ったけど、それは私の目標が常にハッピーでいることだからです。その目的は自分が幸せになればそれでいいっていう考えではなくて、自分が幸せなら、その幸せが他人にも絶対伝染するって信じているから。
自分も相手もハッピーになれたら、それはもう最高なことよね。
その中でもここにいて思うことは、
・多様性の中にいるからこそ、他人の素敵なところに目が行くところ
・妊婦さんや車いすに優しいバスの人達
・素直にありがとうとごめんなさい
この3つ。
一つ目は実はすごく難しい問題で、例えば髪の毛がくるくるの黒人の人の髪の毛に、もの珍しく、すごいね!触っていい?なんて言えば、不快に思われる例も珍しくないけど、多様性の中にある素敵だと思うことをサラッと褒めるのはとっても良いことだと思う。
私は自分の髪の毛と漆黒の髪色が好きなんだけど、この前店員さんがサラッと、つやつやしてて健康的な髪の毛ねー!素敵!っていってくれて。
それはそれはとっても嬉しかった。どうしてもないものねだりで、金髪が羨ましい!とかあの肌色がキレイ!とか思うことはあるけど、自分にしかない生まれ持ったものを褒められたらやっぱりうれしいもの。あなたのそのネイルの色、あなたの肌色にすごく合ってて素敵とかね。
二つ目はもう結構どこでもよく言うことだと思う。
バスで車いすが乗ってきたらみんな手伝ったり、席をさっとたったり。席を譲ったら恥ずかしいって思う風潮が日本にはあるみたいだけど、それはとってもおかしいこと。
席を譲ったら、良い子ぶりっこ
しっかり勉強したら、意識高い系
こっちの人はみんなそうとは思わない。人が助けを求めていたら助ける、自分が勉強したいからしっかり勉強する。そういうのって普通の人間らしさだと思う。外でこういう光景に出会えたら、一日幸せになるなあ。
三つ目は、簡単そうでなかなかできない(と思ってしまっている)こと。
ありがとうとごめんなさい。
例えば、道で人にぶつかってごめんなさい。満員電車で足を踏んでしまったらごめんなさい。バスの運転手さんに降りる時のありがとう。などなど。
ごめんなさいって言えば、大丈夫ですよ。で済むし、
ありがとうと言えば、どういたしまして、って言った方も言われた方も気持ちがいい。
自分がごめんなさいって思ってます、ありがとうって思ってますって、相手に伝えることってとっても大切だと思う。
その一言で会話が生まれて、その一言でほっこり出来るんだもの、すごい魔法の言葉よね。
自分も人間で、周りにいる人達もみんな同じ人間。自分がされてうれしいことは相手にもしてあげよう。自分が不快になることは相手にもしないでおこう。
意識的にでも、会話を生むことって、幸せのキーになると思う。
アメリカのここがいい (1)
いいところも悪いところもある。
どこの国に行ってもそれは同じ。
私がアメリカでよかったと思えるところが何個かある。
それの一つが
1.フレキシブルさ
私の言うフレキシブルさは、レストラン、カフェのお店の対応など。
基本のマニュアルはあっても、それに100%従わなければならないっていう決まりはない。先日、スターバックスでトールサイズのチャイラテを頼んだら、ドリンク作り担当の人が私と会話をしながらトールサイズをベンティサイズに変えてくれた。
え?私のはトールだよ。
って言ったら、いいんだよって、トールサイズの出すはずだったカップをくちゃくちゃにしてhave a good dayと言って仕事に戻っていった。
おもてなしというのは、あくまでマニュアル通りに礼儀正しく丁寧な対応をすることのみに限らないと思う。
これは日本のレストランやカフェで働いていた時から今までずっと思っていること。
サービスをしまくれというわけではなくて、客のニーズに合わせて多少ラインを外してもいいんじゃないかと。実際このお兄さんのおかげで、仕事終わりで疲れていた私はとってもとってもハッピーになれたわけだし。
テキトーだなあとつくづく思うアメリカだけど、そういうフレキシブルで素敵な瞬間に出くわすと、幸せになる。
あと一年はとことん真面目に不真面目になる
最近誕生日を迎えまたひとつ大人になりました。
去年の誕生日はアメリカに来たばかりで友達もおらず、唯一のインド人の友達がご飯行こうよ!って誘ってくれて、夜8時授業が終わってからタイ料理を食べにいった。火曜日だった。学校が始まってまだ3週間とかだったけど、火曜日はもう既に嫌いだったなぁ。Peace and conflict resolution っていう授業でしかも先生がhard grader (グレードに厳しい先生) でその日もディスカッションに参加できず、泣きべそをかきそうになりながら授業終わってお食事に行った気がする。
一年あっというまだった。
何をするでもなく、ひたすら学んで学んで学び続けていたら一年が過ぎていた。
贅沢すぎる時間の使い方…でもとっても楽しかった。
この一年も7割くらいは院生活に追われるだろうけど、その中で院生活に置いての目標を考えてみた。
・タイムマネジメント(時は本当にお金に変えられない)
・いい具合に自己中になる(自己中して恥をかいても周りは気にしてない)
・礼儀は正しく、しかし、がっつく(何に対してもいい子ちゃんしてたらアメリカでやっていけない)
・人を頼りに頼りまくる(しつこいと言われるほどに教授に頼って、学ぶことをやりつくす)
以上!
しあわせのつくりかた
統計学の課題をしながらひたすら考えてた。
統計学といっても数学数学しているものではなくて、international affairs stats and methodsという授業で、目に見えないコンセプトをはかろうというもの。
“目に見えないコンセプトなんて目に見えないのにどうやってはかるのーー”
しかし数字は嫌いの私は頑張った。
選んだコンセプトは「人生の充実さ、幸せ度」。
なぜなら、何不自由ないはずの日本の幸せ度ってきわめて低いから。
統計の仕方は、世界の国々の膨大なデータセットの中で、自分が幸せ度をはかるのに適切だと思う要素 (例えば、学校の入学者数、GDP、医療費などなど)の数値を抜き出して、計算式に当てはめて最後は自分で、研究結果を分析するというやり方。
自分で改めて書いててもわけがわからん。
こんな計算のしかたはさておき、
幸せって一体なんなのだろうか。
最近FBが、3年前の今日フィリピンに行きました。と思いださせてくれた。
フィリピンにはボランティア活動で行ったのだけど、幸せの定義を改めて考えなおした時だった。
訪ねた孤児院の子供たちは、それはそれはかわいくて無邪気だった。日本だったら携帯とか持っていてもおかしくない年齢の子もいたけれど、誰一人電子機器をもってなかった。
遊ぶときは外のバスケットゴール、大縄、鬼ごっこ、ものを使ったゲーム、とにかく外に出て、大はしゃぎする姿がとても自然で、みんなの顔がすっごくきらきらしてた。今もあの笑い声と顔はよく覚えてるなあ。カメラとか携帯を出すと、興味津々に食いついて離さなかったりした。私達には当たり前の物が彼らにとったら異次元のものだった。
まだまだ途上国だし、ましてやあの子供たちには親がいない。生活は充実とはかけ離れているけれど、そこで思ったのは、
幸せは、ものが揃っているから、のみならず、どんな環境であっても自分の気持ちの転換で得られるものだ、ということ。
こんなことを、何不自由ない生活を送っている日本人の私が言うのもきれいごとに聞こえるかもしれないけれど、日常に溢れるいろんな出来事を幸せに変換できたら、もっとハッピーな人達が増えると思う。
日本には、キレイなトイレも、安全な食材も、便利な交通機関も、どこにいても誰とでも話せてゲームもできてなんでもし放題な携帯電話もあるのに、まだまだ幸せ度が低い。
統計では、毎年55位前後らしい。
本当につくづく贅沢な国だ。
生きることの価値観は国によって違うと思う。
私たちは例えば、仕事を手に入れて結婚して充実した生活を送ることに価値を置いているかもしれないけれど、ただただ「明日生きること」を生きる目標にしている国はたくさんある。
だけどその中で、幸せ度は少なからず自分で作ることが出来ると思う。
幸せに小さいも大きいも関係ない。幸せに見える人をうらやむのももうやめよう。自分が幸せになれるハードルを下げたら、もっと世界がきらきらするんじゃないかなあ。
なんて統計学と戦いながら思ったり。
久しぶりに会いたいなあ。子供たち。元気かなあ。
過去の出来事はいい意味で振り返ろう
大学院は容易じゃない。たくさんの勉強量をこなして、アプリケーションを書いてなんといってもとてつもない熱量とやる気があったから、あなたたちはここにいる。
あなたは才能があるからここにいる
それを忘れないでほしい
って教授が言った。
良く自分にも言い聞かせることだけど、
常に自分に誇りをもって生きたいと思う。
「すごいね」って世の中にあふれる本音か建て前かわからないような言葉にも、どんな時でも、そんなことないよって思ってしまう生き方はしたくない。
例えば、自分の生活の中の少しのことに対して、自分を少し褒めてみたり。
自分がちっぽけに思えたときは、
みんなが話せない日本語も話せるんだから!とか、アメリカで一人暮らししてるんだから!とか、なんといっても大学院を受けたときの自分の莫大な勉強量と行動力はとてつもなかったんだから!とかカナダのホームステイでセクハラを受けた時に自分一人で冷静に対応したんだから!とか思えば、なんとかなる。
自分の過去を振り返って、自分頑張ってたじゃん
って思うことって誰にでもあると思う。
世界基準じゃなくて自分基準でいい。みんなそれぞれ価値観と経験は違うから。
電車に乗っているふとした時間とか、ちょっと落ち込んでいるときにそういうことを時々考えてみると、めきめきと元気が湧いて、ふぅと一息、また頑張ろうと思える。
You are here because you are talented.
授業中にこの言葉に15分くらい気を取られて上の空だったことは、秘密で。
アメリカの頑張る新学期女子たち
新学期も始まって約2週間。新しいクラスにわくわくドキドキしながら学校に通う若い大学生がうじゃうじゃいて、大好きな人間観察が止まらない。
学校のスタバの長蛇の列に並んでなんとなくボーっとしていると、4人くらいの(おそらく18歳とかの)女子大生がテーブルを囲んで話していた。
一人は胸元ががっつりあいた服にロングヘア化粧ばっちり
もう一人はとにかく印象深いメイク
3人目はロングヘアにニット帽のアジア系アメリカ人(たぶん)
もう一人は顔が見えなくて覚えていない
けど、みんななんといってもおしゃれとメイクに力をかけたんだろうなあ、という印象。
イケメンがいたら、あの子かっこよくない?とかこそこそ話して楽しむのかなぁ。
クラスの気になる男子と目授業中に目があってそらしたり、
そのことをあとでこの4人できゃあきゃあ話しあったり
インスタグラムで気になる男子をストーカーしたり、
時には好きな人がかぶって仲たがいしたり、
ある子はみんなの前で好きな子にプロムに誘われたり、
するのかなぁ。
ゴシップガールの庶民版を見ている程に今この新学期は特にかわいく頑張っている子が多くて、一人でほほえましさを感じてしまうと同時に自分の歳を感じ、自分のかわいかった大学1年生の時の片思いなんかを思い出してしまう。
いい暇つぶし。
(ところでこの子たちのすっぴん登校はいつから始まるんだろう)
シカゴの4時間もの乗り継ぎの時に書いたブログ
三ヶ月の長い濃厚な夏休みがあっさり終わった。これからこの楽しさを味わった分だけアメリカ生活に励もう。
そう決意できるのはきっと授業が始まり始めた頃だと思うけど。
アメリカに戻るという意識がないままパッキングをし、空港に着けばなんでここにいるんだろうと思いながら家族に笑顔で手を振り、日本を発つ時に窓際の席から見える夕焼けを見てやっとあれなんかさみしいぞと思い始め、アメリカについた今そばにいて欲しい人がそばにいないことに心細さを感じながら疲れと戦ってる。
クーラーの寒さでぶるぶる震えてる私のそばで余裕の表情でパソコンをいじるタンクトップ男子たち、マックのポテトの脂っぽさ、徐々にアメリカに戻ってきたことを実感してきた。
そういえば念願の大学院進学という夢を抱えてアメリカにやってきたのはちょうど約1年前。
乗り換えの時間が長かったのでぼーっと思い出し考えてみた。
友達もいない、場所もしらない、大学院という難しい挑戦にもかかわらず多様性溢れるアメリカに夢を抱いてた。その時はオバマ大統領の時だったから彼の近くに行けるのも嬉しかったしモチベーションが上がった。
あー、わりとウキウキしてたな
アメリカの自由なところが好きだ。空港について大きすぎる空港で一緒に迷子になってゲートを探して最後にまたね!会えてよかったよ!なんて言い合う感じが好き。でもその大きな空港で一番初めに思ったのは、多様性の素晴らしさよりも多様性の中でマイノリティにおかれる自分の立場だった。この中のどれだけの人が白人至上主義なんだろう、日本にいるとマジョリティだけど今はマイノリティなのかという感情だった。
複雑だ。(きっと機内で、白人が黒人を搾取するスリラー映画を見てしまったから余計に)
マジョリティもマイノリティもそんなものどうでもいいのに、自分で自分をそう思ってしまう。
でも最終的に、こう思うことにしている。
私は勉強をしにアメリカにきた。その機会も自分が努力して手にした最高のチャンスだ。誰にも邪魔はさせない、と。
1年間、いろいろあった。
差別もあった。
悔しくて泣いたこともあった。
でもその分強くなった。
きっとあと1年弱、卒業するまでまた色んなことがあると思うけれど、私ならきっと頑張れる!