せっかくの人生だもの。

ワシントンDCから帰国して早2年。大学院で人権、社会、女性問題について勉強してました。帰国後日本でOL中。人生ってなんだろうなぁ〜日々感じたことを書き記して生きたい。

ゲイクラブに行った話。

 

 

人生初!ゲイクラブに行った。

 

正直人生のうちでゲイクラブに足を踏み入れる時が来るなんて思ってもみなかったけど、ノリで踏み入れてしまった。

 

楽しかった。

 

何が楽しかったかというと、周りはゲイの男たちで溢れてて、みんな楽しそうに踊ったりキスしたりいちゃついているのを、はたから見ながら多様性ってこうゆうことだって感じられたこと。あとは、普通のクラブとは違って、女の体目当てで来る男がいないから、全くジロジロ見られたりしないこと。

 

そう、男が女の弱いところを狙って食うようなそんな現場が存在しない。

 

踊りながら考えた。

 

男と男の恋愛または女と女の恋愛は、男女の恋愛とは少し違う。お互いが恋に落ちたりキスしたりすることは同じだとしても、性別から生まれるパワーの違いが違う。

要するに、男×男、女×女は、パワー関係がほぼない状態で恋愛感情で成り立っているけど、男×女の場合、男がパワーを有していることがあるために、本当に恋愛関係が生まれているのか、さては男が女の弱さを利用して体目的で関係性を作っているのか、という所が違う(特にクラブやバー)

 

何回もあった。そういうふうに感じることが。嫌だった。上から下まで舐め回すように見られて、女を馬鹿にして酔わそうとしてくるような男がクラブで溢れているのが今も嫌い。

 

だけど、ゲイクラブではそういう光景はもちろんなく、みんなただ単に楽しそうに踊ってた。私なんかより綺麗にメイクしてて、見惚れてしまうようなイケメンもいた。

 

この街にこんなにゲイいたの!ってびっくりしたけど、みんな気楽に過ごせる場所がここにあって嬉しいだろうなぁ、って私も嬉しくなった。

 

 

 

私が出勤時に必ず思うこと - 多様性と社会の活性化 -

 

 

 

私は学校以外の日はNGO団体でインターンシップをしています。

朝の8時、満員電車に乗りダウンタウンで降りる。

電車を降りて、行きかう色んな人種のサラリーマンに埋もれながら私が思うことは、「これが世界を活性化させるんだ」ということ。

 

 

 

私が大学院受験の時に願書のエッセイの内容で行き詰っていた時、大学のお世話になっていた教授に「深く考える必要はない。みんながもっていない日本人としての視点をうまく活用すればいい、みんながもっているものじゃないんだから」ということを言ってもらった時を思い出す。

 

日本人としての視点。

 

これは、日本人である私にしかないもので、同じように、中国人の視点、アメリカの視点、ケニアの視点、いろんな国の視点の中に国同士が認め合い、うまく取り入れていくべき要素が必ずある。

 

 

社会にもっと多様性が増えれば、きっといいことがあふれるはず。

 

 

 

しかし、

お、待てよ…

今のままの日本だと、

 

例えば難民受け入れの問題だと、彼らへの受け入れ窓口が小さいうえに、彼らが国で生活するうえの援助も少ない。

多様性を目指したとして、一緒に生活、仕事をする上で「外国人」というラベルをなくすのは難しい。

技術能力社会のアメリカと違って、年功序列の体系を重んじる日本にとっては外から貢献しに来た外国人の仕事の満足度も心配だ。

 

と、懸念はあるものの、

 

もっと日本もこうなればいいなあ、

もっと世界中がお互いの知識、能力、技術を認め合える場所になればいいなあ。

 

 

と仕事に向かう時にいつも思う。

 

 

 

米国大学院生活の仕組みと一日の生活記録

 

 

今学期はやることがたくさんで本当にいっぱいいっぱいだー。

 

いつもどおり授業の予習のリーディングと、院生活のあとの就職も考えないといけない。おまけにインターンシップはあるし、今学期取っている必修科目の統計学には、まあ時間をとられるったりゃありゃしない。

 

 

もちろん統計学も、人権問題の資料を使ったりとまったく違うことをするわけではないけれど、しかし私の脳みそは数学脳ではないので、毎回悲鳴をあげてます。

 

 

と、まあやることが多い中でも、あと1学年で院生活を終えてしまうと思うと早いものです。実質あと半年くらいしかない。

 

そこで、忘れないうちに米国院生の生活についてちらっと記録しておこうと思います。

 

 


 

 

まず私の学校では9単位(3クラス×3単位)とればフルタイム生、それ以下ならパートタイム生として扱われます。

 

私の場合、プログラムに必要な単位数は39単位=3単位×13クラス

1年(秋)3クラス、1年(春)3クラス、1年(夏休みオンライン)1クラス

2年(秋)3クラス、2年(春)3クラス

 

という感じで、今は2年の秋です。

ちなみに日本の学校とは違い、1単位いくらという授業料なので、一クラス一クラスにかけられているお金の量をクラスを休んだりなんかすると重々と感じます。まず1回遅れるとついていけない。

 

クラスは1週間3つしかないけれど、1つの授業が2時間半~3時間のディスカッション クラスなので、予習しないと授業の内容がわからない&発言できなければ存在を消される=死ぬ。(明らかに1年の時よりは発言もできるし、勉強に対する気持ちにも余裕は出てきたけれど)

 

ということで、

 

毎日勉強してます。

今じゃ勉強しないとモヤモヤするようになってしまった…。

 

 

 

 

一日のスケジュールはというと、

 

8時ごろ 起床して(掃除洗濯は朝のうちに)

10時~11時 早めのお昼ご飯を済ませて、学校へGO

そこからは予習復習をひたすらして

8時ごろ帰宅(最近は怖いので真っ暗にならないうちに帰ってる)

9時半 自炊を済ませて夕食を食べて

11時 お風呂も済ませて勉強して

1時までに 寝る

 

という生活。

 

 

 

前学期は朝から夜中まで図書館という生活だったけれど、

今学期はお金と体に気をつけているので、大体昼前から暗くなる前まで。

家で自炊すると体も喜ぶし、だいぶ節約になるので一石二鳥。

 

 

これは授業も何もない日のスケジュールだけれど

インターンがある日は家に帰ってスーツを脱いでごはんを食べて7:30ごろから図書館に向かって帰りは遅いのでウーバー。本当にウーバーには感謝感激です。

 

そしてもちろんファイナル期間に入れば、朝から夜まで図書館缶詰状態。

 

と日によって違うけど、大体こんな感じ。

 

 

 

 

 

しかし、こんなに勉強が忙しくても楽しい、やりがいがあると思えるのはうれしい。

 

きっと教授も生徒も教材も図書館が24時間やってるっていう環境も全部充実してるからだと思うけど。教授のことがどんなに好きでも、クラスにいる生徒が勉強熱心じゃなかったら全く楽しくないもの…。

 

いやだーって言いながら実際勉強大好き人間。(笑)この気持ち忘れたくないなぁ。

 

 

 

 

アメリカのここがいい(2)

 

アメリカのいいとこ探しパート2

 

日本は特に、アメリカンライフに憧れているように感じるから、過剰な期待とは裏腹にがっかりすることもある。そんなにアメリカンドリームに憧れはなかった私でもちょっとしたがっかりはいろいろとあった。でもそんな過剰な期待も最近は平常な人生の一部になってきた。うん、これが普通のアメリカ。

 

人間に短所と長所があるように、アメリカにもいいところはある。

 

前回のフレキシブルさに引き続き私が好きなのは

 

2.知らない人が知らない人にやさしいこと

 

助け合ったり、褒め合ったりして知らない人が知らない人をハッピーにする。

 

ハッピーハッピーってこのブログでもう100万回くらい言ったけど、それは私の目標が常にハッピーでいることだからです。その目的は自分が幸せになればそれでいいっていう考えではなくて、自分が幸せなら、その幸せが他人にも絶対伝染するって信じているから。

 

自分も相手もハッピーになれたら、それはもう最高なことよね。

 

その中でもここにいて思うことは、

・多様性の中にいるからこそ、他人の素敵なところに目が行くところ

・妊婦さんや車いすに優しいバスの人達

・素直にありがとうとごめんなさい

 

この3つ。

 

一つ目は実はすごく難しい問題で、例えば髪の毛がくるくるの黒人の人の髪の毛に、もの珍しく、すごいね!触っていい?なんて言えば、不快に思われる例も珍しくないけど、多様性の中にある素敵だと思うことをサラッと褒めるのはとっても良いことだと思う。

私は自分の髪の毛と漆黒の髪色が好きなんだけど、この前店員さんがサラッと、つやつやしてて健康的な髪の毛ねー!素敵!っていってくれて。

それはそれはとっても嬉しかった。どうしてもないものねだりで、金髪が羨ましい!とかあの肌色がキレイ!とか思うことはあるけど、自分にしかない生まれ持ったものを褒められたらやっぱりうれしいもの。あなたのそのネイルの色、あなたの肌色にすごく合ってて素敵とかね。

 

 

二つ目はもう結構どこでもよく言うことだと思う。

バスで車いすが乗ってきたらみんな手伝ったり、席をさっとたったり。席を譲ったら恥ずかしいって思う風潮が日本にはあるみたいだけど、それはとってもおかしいこと。

 

席を譲ったら、良い子ぶりっこ

しっかり勉強したら、意識高い系

 

こっちの人はみんなそうとは思わない。人が助けを求めていたら助ける、自分が勉強したいからしっかり勉強する。そういうのって普通の人間らしさだと思う。外でこういう光景に出会えたら、一日幸せになるなあ。

 

 

 

三つ目は、簡単そうでなかなかできない(と思ってしまっている)こと。

ありがとうとごめんなさい。

 

例えば、道で人にぶつかってごめんなさい。満員電車で足を踏んでしまったらごめんなさい。バスの運転手さんに降りる時のありがとう。などなど。

ごめんなさいって言えば、大丈夫ですよ。で済むし、

ありがとうと言えば、どういたしまして、って言った方も言われた方も気持ちがいい。

自分がごめんなさいって思ってます、ありがとうって思ってますって、相手に伝えることってとっても大切だと思う。

 

その一言で会話が生まれて、その一言でほっこり出来るんだもの、すごい魔法の言葉よね。

 

 

 

自分も人間で、周りにいる人達もみんな同じ人間。自分がされてうれしいことは相手にもしてあげよう。自分が不快になることは相手にもしないでおこう。

 

意識的にでも、会話を生むことって、幸せのキーになると思う。

 

 

アメリカのここがいい (1)

 

 

いいところも悪いところもある。

どこの国に行ってもそれは同じ。

 

私がアメリカでよかったと思えるところが何個かある。

 

それの一つが

1.フレキシブルさ

 

私の言うフレキシブルさは、レストラン、カフェのお店の対応など。

基本のマニュアルはあっても、それに100%従わなければならないっていう決まりはない。先日、スターバックスでトールサイズのチャイラテを頼んだら、ドリンク作り担当の人が私と会話をしながらトールサイズをベンティサイズに変えてくれた。

え?私のはトールだよ。

って言ったら、いいんだよって、トールサイズの出すはずだったカップをくちゃくちゃにしてhave a good dayと言って仕事に戻っていった。

 

おもてなしというのは、あくまでマニュアル通りに礼儀正しく丁寧な対応をすることのみに限らないと思う。

これは日本のレストランやカフェで働いていた時から今までずっと思っていること。

 

サービスをしまくれというわけではなくて、客のニーズに合わせて多少ラインを外してもいいんじゃないかと。実際このお兄さんのおかげで、仕事終わりで疲れていた私はとってもとってもハッピーになれたわけだし。

 

テキトーだなあとつくづく思うアメリカだけど、そういうフレキシブルで素敵な瞬間に出くわすと、幸せになる。

 

 

あと一年はとことん真面目に不真面目になる

 

最近誕生日を迎えまたひとつ大人になりました。

 

 

去年の誕生日はアメリカに来たばかりで友達もおらず、唯一のインド人の友達がご飯行こうよ!って誘ってくれて、夜8時授業が終わってからタイ料理を食べにいった。火曜日だった。学校が始まってまだ3週間とかだったけど、火曜日はもう既に嫌いだったなぁ。Peace and conflict resolution っていう授業でしかも先生がhard grader (グレードに厳しい先生) でその日もディスカッションに参加できず、泣きべそをかきそうになりながら授業終わってお食事に行った気がする。

 

一年あっというまだった。

 

何をするでもなく、ひたすら学んで学んで学び続けていたら一年が過ぎていた。

贅沢すぎる時間の使い方…でもとっても楽しかった。

 

この一年も7割くらいは院生活に追われるだろうけど、その中で院生活に置いての目標を考えてみた。

 

タイムマネジメント(時は本当にお金に変えられない)

・いい具合に自己中になる(自己中して恥をかいても周りは気にしてない)

・礼儀は正しく、しかし、がっつく(何に対してもいい子ちゃんしてたらアメリカでやっていけない)

・人を頼りに頼りまくる(しつこいと言われるほどに教授に頼って、学ぶことをやりつくす)

 

 

以上!

 

 

 

しあわせのつくりかた

 

 

統計学の課題をしながらひたすら考えてた。

統計学といっても数学数学しているものではなくて、international affairs stats and methodsという授業で、目に見えないコンセプトをはかろうというもの。

 

“目に見えないコンセプトなんて目に見えないのにどうやってはかるのーー”

 

しかし数字は嫌いの私は頑張った。

 

選んだコンセプトは「人生の充実さ、幸せ度」。

 

 

なぜなら、何不自由ないはずの日本の幸せ度ってきわめて低いから。

 

 

統計の仕方は、世界の国々の膨大なデータセットの中で、自分が幸せ度をはかるのに適切だと思う要素 (例えば、学校の入学者数、GDP、医療費などなど)の数値を抜き出して、計算式に当てはめて最後は自分で、研究結果を分析するというやり方。

 

自分で改めて書いててもわけがわからん。

 

こんな計算のしかたはさておき、

 

幸せって一体なんなのだろうか。

 

 

 

 

最近FBが、3年前の今日フィリピンに行きました。と思いださせてくれた。

フィリピンにはボランティア活動で行ったのだけど、幸せの定義を改めて考えなおした時だった。

 

 

訪ねた孤児院の子供たちは、それはそれはかわいくて無邪気だった。日本だったら携帯とか持っていてもおかしくない年齢の子もいたけれど、誰一人電子機器をもってなかった。

遊ぶときは外のバスケットゴール、大縄、鬼ごっこ、ものを使ったゲーム、とにかく外に出て、大はしゃぎする姿がとても自然で、みんなの顔がすっごくきらきらしてた。今もあの笑い声と顔はよく覚えてるなあ。カメラとか携帯を出すと、興味津々に食いついて離さなかったりした。私達には当たり前の物が彼らにとったら異次元のものだった。

 

まだまだ途上国だし、ましてやあの子供たちには親がいない。生活は充実とはかけ離れているけれど、そこで思ったのは、

 

幸せは、ものが揃っているから、のみならず、どんな環境であっても自分の気持ちの転換で得られるものだ、ということ。

 

こんなことを、何不自由ない生活を送っている日本人の私が言うのもきれいごとに聞こえるかもしれないけれど、日常に溢れるいろんな出来事を幸せに変換できたら、もっとハッピーな人達が増えると思う。

 

日本には、キレイなトイレも、安全な食材も、便利な交通機関も、どこにいても誰とでも話せてゲームもできてなんでもし放題な携帯電話もあるのに、まだまだ幸せ度が低い。

統計では、毎年55位前後らしい。

本当につくづく贅沢な国だ。

 

 

生きることの価値観は国によって違うと思う。

 

私たちは例えば、仕事を手に入れて結婚して充実した生活を送ることに価値を置いているかもしれないけれど、ただただ「明日生きること」を生きる目標にしている国はたくさんある。

 

だけどその中で、幸せ度は少なからず自分で作ることが出来ると思う。

 

幸せに小さいも大きいも関係ない。幸せに見える人をうらやむのももうやめよう。自分が幸せになれるハードルを下げたら、もっと世界がきらきらするんじゃないかなあ。

 

 

なんて統計学と戦いながら思ったり。

 

久しぶりに会いたいなあ。子供たち。元気かなあ。