せっかくの人生だもの。

ワシントンDC大学院生2年目。人権、社会、女性問題について勉強中。ゆるーり感じたことを書いてます。

しあわせのつくりかた

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統計学の課題をしながらひたすら考えてた。

統計学といっても数学数学しているものではなくて、international affairs stats and methodsという授業で、目に見えないコンセプトをはかろうというもの。

 

“目に見えないコンセプトなんて目に見えないのにどうやってはかるのーー”

 

しかし数字は嫌いの私は頑張った。

 

選んだコンセプトは「人生の充実さ、幸せ度」。

 

 

なぜなら、何不自由ないはずの日本の幸せ度ってきわめて低いから。

 

 

統計の仕方は、世界の国々の膨大なデータセットの中で、自分が幸せ度をはかるのに適切だと思う要素 (例えば、学校の入学者数、GDP、医療費などなど)の数値を抜き出して、計算式に当てはめて最後は自分で、研究結果を分析するというやり方。

 

自分で改めて書いててもわけがわからん。

 

こんな計算のしかたはさておき、

 

幸せって一体なんなのだろうか。

 

 

 

 

最近FBが、3年前の今日フィリピンに行きました。と思いださせてくれた。

フィリピンにはボランティア活動で行ったのだけど、幸せの定義を改めて考えなおした時だった。

 

 

訪ねた孤児院の子供たちは、それはそれはかわいくて無邪気だった。日本だったら携帯とか持っていてもおかしくない年齢の子もいたけれど、誰一人電子機器をもってなかった。

遊ぶときは外のバスケットゴール、大縄、鬼ごっこ、ものを使ったゲーム、とにかく外に出て、大はしゃぎする姿がとても自然で、みんなの顔がすっごくきらきらしてた。今もあの笑い声と顔はよく覚えてるなあ。カメラとか携帯を出すと、興味津々に食いついて離さなかったりした。私達には当たり前の物が彼らにとったら異次元のものだった。

 

まだまだ途上国だし、ましてやあの子供たちには親がいない。生活は充実とはかけ離れているけれど、そこで思ったのは、

 

幸せは、ものが揃っているから、のみならず、どんな環境であっても自分の気持ちの転換で得られるものだ、ということ。

 

こんなことを、何不自由ない生活を送っている日本人の私が言うのもきれいごとに聞こえるかもしれないけれど、日常に溢れるいろんな出来事を幸せに変換できたら、もっとハッピーな人達が増えると思う。

 

日本には、キレイなトイレも、安全な食材も、便利な交通機関も、どこにいても誰とでも話せてゲームもできてなんでもし放題な携帯電話もあるのに、まだまだ幸せ度が低い。

統計では、毎年55位前後らしい。

本当につくづく贅沢な国だ。

 

 

生きることの価値観は国によって違うと思う。

 

私たちは例えば、仕事を手に入れて結婚して充実した生活を送ることに価値を置いているかもしれないけれど、ただただ「明日生きること」を生きる目標にしている国はたくさんある。

 

だけどその中で、幸せ度は少なからず自分で作ることが出来ると思う。

 

幸せに小さいも大きいも関係ない。幸せに見える人をうらやむのももうやめよう。自分が幸せになれるハードルを下げたら、もっと世界がきらきらするんじゃないかなあ。

 

 

なんて統計学と戦いながら思ったり。

 

久しぶりに会いたいなあ。子供たち。元気かなあ。