いやあ、こうやって白紙を目の前にすると、あれ、今日あんなことやこんなこと思ったのに何を書くんだっけって忘れちゃうから本当、思ったことはメモにするのが後から一番効率的だな。
一つ覚えていることは、男と女の話。
本屋さんからの帰り道、夕焼け空を見ながらふと自分が昔なりたかった夢のことを思い出した。ちいさいころのケーキ屋さんとかおもちゃ屋さんとかそういう時代の話ではなく、中学校高校とか結構最近の昔話を。
わたし、消防士とか警察官とかFBIとかになりたかった。
実は。
でもなんの根拠もなくて、理由はただ一つ。
男も女もくそもない、私だってそういう仕事ができるんだって思いたかったし、世間に知らしめたかった。(大げさ)
今思えば、性への違和感とかカテゴライズされることが嫌いだったのはそのころからだったんだと今実感。
今実際に、大学院あと残り1年になり、のちに就職するところを考えたとき、そういえばあの時思っていた消防士=男、警察官=男みたいな発想は逆に性差別だったと気付いた。今やそんな考え方古くさい。フライトアテンダントにも男性はたくさん増えた。男性看護師さんもいる。あの時の私は私なりの反抗だった。(笑)
今でもよく聞く。レストランでアルバイトをしていた時、テーブルの上にあらかじめおいてある色とりどりの取り皿をお父さんが子供たちに「はい、○○ちゃんは女の子だから赤ね、●●くんは男の子だから青ね」って渡していたり。
せっせと働きながらも、その親子間のやり取りに違和感を感じてた。
哲学的な話になるが、前学期私は「女と男」主に育児についてエッセイを書いた。
「育児は女がするもの」
そう決めつけられて時がたって、
その決まり文句を分析してみた。
ある有名なジェンダー哲学者がこう言ってた。「女は男がいるから成り立つもの、女は男という存在から生まれる」
とんでもない考え方だと思った。そういえばそのエッセイの中で、その考えに真っ向から対立した。結論としては、生物学的に女の母性は女にしかないものであって、それが育児で最大の役割を果たしている、だけどこれが=として、育児=女 にはならない。
こういう生物学的な証拠があろうとも、役割分担の中にこれと言った決まりは存在しない。
結局女の方が向いているんだよ、男の方がいいんだよ、なんて言ってしまえば、もうそこでおしまい。
もう一つ、アメリカにいると、そこら中に筋肉マッチョな男、ボンキュッボンを目指す女がたくさんいる。ジムにいくとぷりぷりお尻を振りながら歩く女子や、これ見よがしにダンベルを持ち上げるマッチョたち。わたしはそのジムで何を思ったかというと、「冷めた」。
もちろん健康な体作りは大事。筋肉も大事。だけど、マッチョじゃないと男じゃねえ、みたいな風潮が強すぎて冷めた。別にマッチョを否定するわけじゃあないが。ブログを始めた当初もこんなことを書いた気がする。
話がそれた。言いたいことは、男も女も関係ねえ。ってこと。
おわり。